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三梁徨村小学校、新学期の3日目、オンボロ校舎には、日の出とともに学生たち「六仙」の姿があった。
(ヨウリンは、昨年、語り合った時に、はっと気付いたように言ったものだ。
「当時、私たちの村には、時計はありませんでした。」
時計
時間
とは違う時間を生きる村。この一言で、私は再び山の暮らしを見直すことができた。)
この日、昨日の作業で疲れきっているにもかかわらず、早朝に全員揃ったのも、必要な仕事があるという自覚と、時計でない時間に動かされて、やって来た結果である。
草をひく者、教室を片付ける者、壁を塞ぐ者など、その中で、ヨウリンは、やはり「教卓」を用意した。黒板の前に置かれた教卓を見て、1人、また1人と、仕事を止めて、学生たちがそれぞれ席についた。
「・・・・・」
10個の真剣な瞳が、ヨウリンをみていた。9年前、ヨウリンがはじめてこの学校へ来た時とおなじように、なにかを期待する目。
「勉強が始まってもいいころだ。」と、先生をうながす目でもあった。
学生にも先生にも教科書はない。まずなにから始めようか、心臓がバクバク鳴っている。ヨウリンは、自分にムチ打った。
「あなたは、学生を教えるためにここへきているのよ!」彼女は、なにも持たないで、教壇に立った。ひとわたり正面から、学生たちの真剣な顔を見た。なんと
一途
でかわいい目!
「みなさん、始めましょう。」
学生は全部立ち上がった。「先生、おはようございます。」なんだか嬉しくなって、みんなが一せいに笑いだした。
「お坐りなさい。今日から、私がこの学校の先生です。」
学生たちは、拍手で応えてくれた。
「うれしいよ、先生。まえの先生は、やる気がなくて、ちゃんと教えてくれなかった。先生、今度はがんばるからね。」
こう言ったのは、中途退学した学生である。
教科書はないけれど、ヨウリンは、借りて来たときに全部暗記していた。言葉も、文も、発音も、声調も、教えたいことは、いっぱい胸にあった。
授業は、はじめから、できるだけ普通語の発音と声調でやった。方言との違いをはっきりさせようと、ヨウリンは以前から考えていた。
「わかりますか。? ♪ ? ? ? ?いっしょにもう一度。」
元気いっぱいの声が何度も繰り返される。はい今度は、先生のあとについて、少しずつ言ってみましょう。中国語の抑揚に富んだ発音と声調の練習は、まるで歌うように、オンボロ校舎からはじけていった。
「少し休みましょう。」
「じゃ、草ひきだ。」「机を修理しなくちゃ。」「じゃ、ぼくは……」
休み時間は、労働時間、という暗黙の時間割で、学生たちも充実感を味わっていた。
ヨウリンは、紙を買ってきて、夜になると、借りてきた教科書や、参考書などから、学生5枚分、写し取ることに専念した。勉強には手を抜かないというモットーは、恩師たちから叩き込まれたことである。
彼女は、休日には、よく山道を歩いて、ほかの学校の先生や、兄を訪ね、教え方や資料について相談した。帰りには、学用品をおみやげにした。学期末になると、5人を連れて山を越え、大規模の学校へ行き、試験を受けさせた。そこでよい成績をあげて、学生たちに自信を持たせ、彼女自身の指針にもした。
当時彼女は給料として、80元(約1000円)を村からもらっていた。詳細はよくわからないが、主には、学生の家から集められたものだろう。彼女自身、普段の生活では、出費をしないので、主に、学生たちの学用品に使った。いや、むしろ学生たちは、先生が用意してくれるのを、待っていたのかも知れない。
冬の兆しは、すぐ山村にもやって来た。
「窓から風が吹き込むと、冬には、我慢できないね。先生、ここをまず塞ごうよ。」
こんな時、オンボロ校舎から流れるうた声を耳にした、村人たちの返歌が届くようになった。ヨウリンが、「私たちより力のある人が、手伝ってくれればいいのに!」と思った願いも、届いたようだ。大人の手にかかると、開閉できる窓やドアも、みごとに完成した。「六仙」たちには、きっと、かれらの先輩たちがいるはずなのだ。
この頃、かつてのクラスメートの姿を見かけたり、手紙をもらうたびに、ヨウリンの勉強したい気持ちに火がつき、燃焼されないまま、心の中に
鬱積
していった。この気持ちを2・3年ののち、敬愛する兄にぶちまけたが、当時の兄にはどうすることもできなかった。
同じ頃、彼女なりの社会分析もあって、退職して、出稼ぎに出たい気持ちを、当時、三梁徨村小学校を訪れた、関西日中交流懇談会の中国人カメラマン相手に語っている。
「出稼ぎに出るほうが、貧困のために学校へ行けない子どもたちを、援助する早道ではないかと思うのです。どんなに安い学用品でも、持ってきなさいといっても、なかなか揃いません。学校で使うものを買うお金もほしいのです。」
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