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桑植県で、私が始めて、絵本を読んだのは、
官地坪
中学校でだった。数年前のこの日は、官地坪中学のオンボロ宿舎を、現地視察するために、関西日中交流懇談会の人が教育局の車で、出かけるのに、私は同乗していた。県城から一時間以上も、山道を走った時、ぶらーりたらーり道を歩く、小学生2人を見かけた。遅刻らしいが、見回したところ、学校らしいものも見えない。よし、彼らの仲間に入れてもらおう、と思った。
「あっ、ここで下ろしてください。あの子たちの学校へ行って、本を読んだり遊んだりします。また、帰り道、時間を決めて、このあたりで拾ってください。」
車が止まる前に、チェン先生の力強い言葉がすばやく反応した。
「もし、そういう準備をなさっているのなら、これから行く中学校でやってください。この県の中学生は、これまでに、1度もそんな経験がないんです。中学生に読んでやってくだされば、喜ぶでしょう。着いたらすぐ、校長に言いますから、教室へ行ってください。」
りんごのような赤いほっぺのチェン先生は、少女のようにも見える。
学校へ着くとすぐに、私は、言われるままにある教室へ行った。さっきまで、ボールを蹴っていた、男子は、玉のような汗が、あふれ出るままに、小さく見える椅子に腰掛けていた。教室いっぱい、直截な視線を受けて、嬉しくて、
面映
かった。
何冊目かに、『百万回生きた猫』(佐野洋子・講談社)を読んだ時、少し余裕も出てきて、私自身が同感する箇所、心震える箇所、安堵する箇所、チラッチラッと彼らの方をうかがうと、彼らの感性豊かな視線を感じて、胸がドキドキ震えた。
「今、私は、中国の山の奥で強く感じている!これは、いったいなんだろう!」
日本を発って、中国民航機中でのこと、私は寸暇を惜しんで、絵本に中国語訳の紙切れを貼り付けていた。中国の子どもに歓迎されたら、プレゼントするつもりである。行き来する乗務員が、時々のぞき込んで見ていたが。
「え、猫が百万回も生きるか?」冷やかしか、
冗談
か、本気か。
中国には、「絵本」というジャンルがほとんどない。だから、中国人のこのような反応、いや、これは日中限らず大人や学生たちの想像できる反応であり、十分覚悟はしていた。
というより、このような反応から何か交わりが生まれるだろうと思っていた。
でも、今、桑植県の人々(村人は窓から
覗
いている)は集中して、物語に入り込んでいる。とんでもない奇想天外な事が次々起こる物語をたのしんでいる。
終わって、しばらくは無言。
「野良猫の最後は、幸せだったかなあ。」私は誰にともなく、つぶやいた。
「幸せだよ。」と、どこかで男の子の声が聞こえてきた。
桑植県での第一歩が、こんなに心に沁みる反応になるなんて!
中国の貧困地区の事は、しばしば「支援」で語られてきたが、始めてこの地を踏んで、こんなに豊かな想像力と、出し惜しみしない愛情を受け取るなんて!
彼らからの愛情を胸いっぱいに感じて、口もきけない状態のまま、このあと、校長先生にもお目にかかった。物静かなようすの傍らで、私は、お話できる絶好のチャンスを逃す手はないと思った。周りには、学生たちが私たちに関係なく行き来していた。
「感性豊かな学生たちですが、校長先生にとって、この学校の誇りは何でしょう?」
「ご覧のように、山水などの災害によく学校がやられます。学校の職員や学生たちは、それぞれ自分の持っている、技術や労働力を惜しみなく提供してくれます。」
さらりとした言葉の中の、ずしりと重い「誇り」、その存在感が心にしみた。この山中には、なんと多くの「海を渡れる八仙」の後輩がいることか。いやいや、自然と生活の厳しさが、無数の「八仙」を生んでいたのだろうか。
それから数度、同県を訪れるたびに、チェン先生は事前に、山の上、谷の奥などの小さな学校と、すでに連絡をとって下さり、私の日程はびっしり決まっていた。
初対面の時、山道の途中で、突然車から下ろしてと言った私に「だめ!」と言ったチェン先生は、ここの山道は複雑で、やはり「郷」に入っては、そこの
辺鄙
な地勢に従うべきである、ということも教えてくれた。
一度、チェン先生と激しくやり合った。自然保護区の山頂にある天平山分校へ行く時は、せっかく遠い山道を行くので、2・3日は逗留して、少数の子どもたちに心行くまで絵を描いてもらい、その絵を使って絵本も作ってと、私は心積もりを主張したが、彼女は、少女のような赤いほっぺに笑みを浮かべたまま、一歩も譲らなかった。
「この県には、小さな学校が、まだまだいっぱいあって、子どもたちがお話してもらうのを待っているんです。」
絵本以外に、私が持てる紙やクレパスは限られるので、小数の学生しか使えないのである。しかし、このことがあってからは、私は、日程については、2度と彼女に反対しないことにした。
何か思いがけない災害に遭った時や、緊急の場合、誰に言われるのでもなく、各自が、自分の力を提供し助け合う。それを誇る方も、誇られる方も、これ以上の「誇り」があるだろうか。
その日、
官地坪
中学校から宿泊所への帰り道や、その後、山の学校を巡る間、忘れようにも忘れられない、山の人々の心に沁みる無形の「誇り」に接して、私は、どうにかして、感謝の気持ちを表わせないものかと、ずっと考え続けた。
そうだ、あの本を贈ろう!『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ)なら、私のこの気持ちを少しは表わせる。帰国したらすぐ準備しよう。
登場するのは、森の深くに住む動物たち。
『アナグマは、この冬を待たず、みんなと別れることを、予感していました。彼は、自分が、長いトンネルの向こうへ旅立って行っても、心は残ることを知っていたので、みんなにも、悲しまないように言い聞かせていました。
ある日、夜になって、アナグマは、ひとり地下室で、お別れの手紙を書き終えると、深い深い眠りにつき、不思議な夢をみます。どこまでも続く長いトンネルを走っています。トンネルを行けば行くほど、早く走れます。そしてすっかり自由になったと感じました。
次の日の朝、みんなは、大好きなアナグマの死を知って悲しみます。その夜、雪が降りました。しかし、心の中の悲しみまで覆い隠してはくれません。
長い冬が過ぎ、春になりました。外に出られるようになると、みんなは互いに行き来して、アナグマを思い出して、語り合いました。
モグラは、はさみを使うのが上手です。1枚の紙から、手をつないだたくさんのモグラを切り抜くのは、アナグマから教わりました。スケートのとくいなカエルも、やはり最初は、アナグマが教えてくれました。キツネは、ネクタイの結び方を、ウサギの料理上手になれたのも、みんなみんな、なにかしら、アナグマの思い出につながっています。
彼らは、アナグマが残してくれた豊かな知恵や工夫を受け継いでいて、それで、お互いに助け合うことができます。
なんだか、いつでも自分たちのそばに、アナグマがいて、語り合いを聞いてくれているような、気がします。』
この絵本に、中国語の
付箋
を貼り付けて、手紙といっしょに、
官地坪
中学校へ送った。
1・2年後、またこの中学校へ行く機会があった。校長先生は、『わすれられないおくりもの』を小脇にかかえて、迎えてくださった。あっと思ったが、
面映
くて何も言えず、校長先生も、本が届いたことを見せてくれただけで、なにも言わなかった。この地域では、最小の会話で、不思議なほど豊かな感動が得られる。
その後しばらくして、私が、日本で、麻酔による手術を受けた時、長くかかる甦りの境界で、長い長い夢をみた。底知れぬ深い森を俯瞰している夢。一瞬、ベッドの上にいるこの世に戻り、また森へと帰った。どこかで見た森、恐怖感は全くなく、なぜか俯瞰できる深い森。そう、バーレイの『わすれられないおくりもの』の森につながっているようでもあるし、桑植県の山々にも思える。長い長い夢のあいだに、同じ森へ何度か行き来し、最後にベッドの現実に戻った時は、これら森に結びつくいくつかの物語は深く私の中に住み着いているのだと、痛感した。
数年前より、中国政府のスローガンが、新聞や村の要所に見られるようになった。「山の開墾をやめて、森に戻そう」(“退耕還林”)。
裸
の山や畑に、木が生えてきた。農民たちは、急な傾斜を耕す苦労から解放され、山に木が茂れば、山水の恐怖からも逃れられる。しかし、子どもたちの学費を得るためには、出稼ぎに出て行くしかなくなった。
ある時、教育局のチュイ先生が、移動の車の中で、私に話そうと機会を待っていた。彼は、どんな僻地の学校へも、できる限りいっしょに行ってくれる。
「あなたの好きそうな話をしてあげよう。10年ほど前に本当にあった話です。ある山の上にある小さな分校の先生が、もっと上の山腹に、スイカ畑をつくりました。ある年、夏休みの間、日本の援助で、校舎を建てるので、ウー先生は畑を家の者にまかせ、すべての労力を学校建築のために奉げていました。落成の日は、村人総出の労働でこぎつけた。この喜びに湧いた日からまもなく、スイカ畑へ行ってみると、なんと、畑のスイカは、一つ残らず盗まれていたんです。」
話の途中から、私は、この話に尾ひれをつけながら想像し始めていた。『月夜のスイカ畑』が、浮かんできた。ドロボウは、月夜の畑で、せっせとスイカの世話をするようすなど。
しかし、スイカ大好きなドロボウが、活躍できる山の畑も姿を消すことになるだろう。
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