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「リテラシーについてこのごろ考えること」

 イギリスから送っていただいた伊東さんのメールを読みながら、そのセミナーで提起されている課題は、いつもこちらで考えていることと全く同じ課題だなと思いました。私は現在、ミャンマーのヤンキン教育大学で、全国の教育大学の教師研修を行う準備を進めているのですが、その中心的なテーマは、基礎教育の中における「Child Centered Approach (CCA)」です。
これは今までリテラシーや基礎教育の仕事などで、私が考えてきたことと一致しているのです。

イギリスのセミナーでLitearcy ってなに?というのがたびたび提起されたそうですが、近年のリテラシーへの関心の高さは、現代人のことばの混乱と人々が緊密なコミュニケーションを必死に求めているところから由来していると思うのですよ。
そこで改めて考えてみたのですが、リテラシーとはことばの力を高め、ことばによるイメージを無限に広げていこうとする力を常にもっているものではないか・・・・・と。
そして言語能力とは他者とコミュニケーションできる力、コミュニケーションしようとする力ではないかと思うのです。つまり世界がグローバル化していく中で、これまでの時代では考えられなかったような文化摩擦や社会変化が現実化しているので、コミュニケーションにおける課題が、あらゆる分野で深刻になってきており、民族間や異文化間、世代間、家族間においても言葉や多様な表現を通じての緊密なコミュニケーションが必要になってきており、その結果としてリテラシーの多様さが真剣に求められてきているということなのでしょうね。
そのためにリテラシーがたびたび登場するようになったのではないかと思うのですが、これからはもっともっとリテラシーという言葉は頻繁に使われるようになっていくものではないかと思います。
そして現在、世界で使用しているいわゆる国語といった考えから、リテラシーといった幅広い機能をもった言葉や考えに移行していくのではないかと思うのです。

またTheory(理論) と Practice (実際)の乖離は、どこでも起きていると思うのですよ。
リテラシーやノンフォーマル教育に限らず、常に理論は、現場や具体的なところからどんどん離れて観念的になっていく傾向があり、知識人もインテリになればなるほど観念的になっていく傾向があることはよくないことですね。
 私はかってパキスタンで識字教育の仕事をしていたとき、よく上司から「あなたはいつも外に出て農村の現場を回るのに忙しく、委員会の机にほとんど座っていなかった。」と批判されたとき、私は「そう、パキスタンの机の上には使えない識字の統計や信じられないほど杜撰な計画があるだけで、社会を理解できるリアリティは全く存在していなかったから。そうですよ。パキスタンの机の上に真実があれば、その机に座っていたでしょうがね。農村の識字の現場の真実により惹かれたのですと答えていたことを思い出しました。(笑)

田島 伸二